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会の歴史

人の思いをはるかに超えて

信徒発見の聖母子像
信徒発見の聖母子像
 梅木公子
1 キリシタンの乙女たち
    1873(明治6)年2月24日、1638年から1873年(寛永15~明治6)におよんだキリシタン弾圧の高札が下ろされた。
    1868(明治元)年に始まったキリシタン総流刑で浦上を離れていたキリシタンたちは流刑地から帰村した。
    これに先立って、1865(慶応元)年には、大浦天主堂サンタマリアのご像の前で、イザベリナ杉本ユリが、プチジャン司教に「ここにおります私たちは皆あなた様の心と同じにございます」と潜伏キリシタンの残存を告げていた。長崎における信徒発見である。
    1873(明治6)年の禁教会解除は日本カトリック教会にとって記念すべき日である。同じくお告げのマリア会にとってもそうである。「創立者は誰ですか?」と問われて返事ができない修道会はまれだろう。しかし、お告げのマリア会は創立者を特定できない。「創立者は神様」これが会員の一致した結論である。
    迫害につぐ迫害、キリシタン根絶のための拷問、弾圧、流配、処刑、この苦難の日々に、神はお告げのマリア会をご計画なさり、その種をみ手に育んでおられた。禁教会が解除された時、神は最も貧しく、虐げられたキリシタンの村々にこの種をまかれた。この種は235年の時を費やして培われたふくよかな信仰の土壌で、明治7年に芽を出す。種をまかれたのは神、種を受けたのはキリシタンの乙女たち、そして、水をやり、育てるのはパリミッション会(パリ外国宣教会)及び教区の司祭たちである。お告げのマリア会は、当初から司祭、教区と一体になって歩みを続けていく。学問もない、その日の暮らしに追われる極貧のキリシタンの乙女たちに修道院創設など大それた目的はなかった。彼女たちはそのようなことさえ知らなかったが、「親方様(司祭)の声は神様の声」であることを信じて疑わない純粋な信仰の特ち主たちだった。その日暮らしの貧しさと、司祭への無条件の従順、これがお告げのマリア会独特の清貧と従順である。
    1956(昭和31)年まで誓願の恵みさえなかったのに会員たちはこれを体験でおぼえ、たしかなものにしていく。
2 外国人宣教師と共同体
    1874(明治7)年6月、長崎港外の島々に赤痢が発生し、長崎地区全域に蔓延した。大浦天主堂に居住していたパリミッション会のマルコ・ド・ロ師には西洋医学の知識があり、すぐに患者の救済に乗り出した。人々は患者を置き去りにして逃げたが、キリシタンたちはド・口師の呼びかけに応じた。なかでも流配地、鶴島から帰村したばかりの岩永マキらの奉仕は献身的で、合宿をしながら患者のなかに入っていった。伝染病が終息した時、彼女たちの合宿所には伝染病で親を亡くした一人の孤児が残されていた。寄る辺のない孤児と暮らす彼女たちの共同生活は、その後ド・ロ師の指導を受けて修道会の形をとるようになり、これが十字修道院と浦上養育院の起源となった。ちなみに浦上養育院は日本で最も旧い養護施設である。この共同体のリーダー格だった岩永マキがお告げのマリア修道会の創立者とされがちだが、似たような経路で、同じような共同体が生まれ、これらが後に統合して聖婢姉妹会からお告げのマリア会となっていくのであって、彼女を会全体の創立者とするには無理がある。
    下五島では、当時なかば公然と行われていた間引きの運命にある子供たちが発端となった。キリシタンの産婆が、五島を巡回していた同じくパリミッション会のマルマン師に、放置されたまま死を待たれている子供たちのことを報告した。師はすぐに子供たちを引き取り、村のキリシタンの乙女たちを集めて世話をさせた。彼女たちの何人かは独身のまま子供たちに奉仕する道を選び、ここでもまた、修道院と養護施設が生まれた。奥浦修道院と奥浦慈恵院であり、その年譜によれば、1880(明治13)年のことである。
    上五島、北松、平戸地区でもブレル師、マトゥラ師の呼び掛けに、キリシタンの乙女たちが同じように応え、指導を受けながら共同体をつくっていった。初代プチジャン司教、二代クセン司教を経て、1927(昭和2)年初の邦人司教、早坂司教様を迎えるまで長崎教区にこのような共同体15を数えるに至った。この間、共同体の間にわずかな交流は見られるもののそれぞれの歩みは本誌に見る通り独自のものである。共通するのは司祭への無条件の従順と質しさである。彼女らは受け継いだ信仰によって同じ価値観のなかで生きていた。このことが後に山口司教様の呼び掛けによる統合を可能にし、寄り合い所帯を一つの大きな共同体へ変えていく力となる。
3 祈りと労働の日々
    1927年、早坂司教様を迎えて、長崎教区は隆盛をみる。小教区の主任司祭は多くの信徒を抱えて、手助けを必要とした。主任司祭のもと、1941(昭和16)年第二次世界大戦勃発までに新たに12の小教区で働く共同体が生まれた。ただ黎明期の創設と異なるのは、初めから修道院設立が目的であったことである。主任司祭の指導に従って、規則に添った祈りと労働の生活をした。教会奉仕だけでなく託児所なども行うようになり、次々に入会者もあり共同体は大きくなっていったが正式の修道院ではなく、誓願も身分の保証もなかった。また各共同体は責任者として院長をおいたが、主導は主任司祭にあり、会員は主任司祭の意向に従って行動した。それは小教区が直面する差し迫った必要に対応することでもあったから、会員はその時その時の必要を満たすため、互いに知恵を絞り奔走した。物的にも何の蓄えもなく、自給さえ困難だったから、まさにその日暮らしの日々であった。お告げのマリア会の今日はこのように「その日暮らし」の集積でもある。
    日本全国貧しい時代、修道院だけが貧しかったわけではなかったが、自給のための肉体労働は激しかった。それは昼夜を分かたず、男性をしのいだ。教会も司祭、信徒が一体となり、それに会員が加わって三者互いに補い合った。開墾、普請、田植え、刈り入れ、冠婚葬祭など部落総出であり、会員たちももちろん同格であった。主任司祭も自ら開墾の鍬を振るい、事業のために金の工面に奔走した。家長を中心にした家族さながら、主任司祭を中心に小教区全員が一体となった大家族だった。会員たちは「あねさん」と呼ばれ、この大家族で一役買った。初物、珍品はまず神父様に。一方会員が主任司祭に夕食のおかず代をいただきにいったり、たばこ好きの会員のために山口大司教様が刻みたばこをお土産に携えたとのエピソードもある。祝日には主任司祭の音頭で修道院では演芸会が聞かれた。みんなで苦楽を分かち合ったのである。今でも修道院の大きな行事には婦人会などが総出で手伝う風習がおり、修道院が窮地に立つと司祭や信徒がそっと手を差し伸べて下さる。
    何の計画もなく、その日の募らしに追われていたかに見えるが、神のご計画は着実に進んでいた。今振り返れば会員たちは立派な福祉事業の先駆者であり、今盛んにいわれる教会の運命共同体を初めから生きている。会員たちの生き方は時にかなって美しい。
4 再度の試練と新たな歩み
    こうして苦難を乗り越えて自活の道を歩き出したが、1941(昭和16)年第二次世界大戦勃発、そしてあの原爆、十字修道院と浦上養育院は壊滅、22名の会員と孤児たちが犠牲となった。神は浦上の地にもう一度試練の時をお与えになった。
    1945(昭和20)年8月15日、戦争終結、平和が戻ったが失ったものは多大であった。戦場に送った主任司祭の何名かは帰らぬ人となった。しかし、天皇の人間宣言、新憲法のもとの信仰の自由は、教会を明るくした。社会福祉法が確立し、各共同体が手がけて来た福祉事業に国からの措置費を受けることになった。会員もそれなりの給料をいただけるようになり、生活費を得るための血のにじむような労働は緩和した。独自でやってきた養護施設、託児所は児童福祉法に従って整備され、会員はこれに対応して学び始めた。戦後の新しい歩みが始まった。
5 統合への模索、実現
    1937(昭和12)年11月7日、早坂司教様に代わって山口司教様が着座された。山口司教様は教区に散らばる共同体の統合を計画された。それは長崎教区のためでもあったが、何の保証もなしに共同生活をしている会員に正当な修道者の身分を与えるためでもあった。 1947(昭和22)年、山口司教様の要請を受けて、里脇神父様(後の枢機卿)が統合に向けての調査をなさったが実現を見なかった。しばし調整の期間が必要だったのである。
   1956(昭和31)年、26の共同体が司教様の呼び掛けに応じ、ひとつの修道会として発足した。野原清師が指導司祭に任命され、本部の機能を果たすため、大浦天主堂境内内の旧司祭館を提供していただき本部と修練院を設立した。野原師は本部要員となる会員を自ら募集した。統合体には司教様自ら「聖婢姉妹会」と命名された。これはルカ福音書のお告げの場面から取られたもので「私は主の婢です。仰せの通りこの身になりますように」(ルカ1,38)と言われたマリア様の心を会の心にいただくためだった。司教様はこの命名にいたく満足されて、よく「良い名だろう」とおっしゃっていたとのことである。
    この年の11月15日、統合に加わった共同体から、何名かずつここに集まり、初めての修練が開始された。野原師は自ら募集した会員やほかの共同体の会員の中から指導的立場に立つ人を選ぶことを試みたが、幾多の困難かおり、事実上、師が指導司祭兼修練長であった。師はまた在俗修道会を目指したようであるが、会員はすでに共同生活をしていたからそれには無理があったようである。ともかくこうして4ヵ月の修練が済み、1957(昭和32)年3月15日22名が初めて誓願を宣立した。いみじくもそれはあの信徒発見のサンタマリアのご像の前であった。こうして聖婢姉妹会は歩み出したが、波風もあり、これを期に退会する人もいた。神の選びの時、そしてこの選びに目覚め、決断する時でもあった。
    1959(昭和34)年、長崎司教区、大司教区に昇格。
    1962(昭和37)年、教区のカテキスタ養成のために、本部に「聖母カテキスタ学院」が開設され、1965(昭和40)年に閉鎖されるまで、支部から派遣された会員がここで学んだ。
6 望まれる養成機関
    1964(昭和39)年、山口大司教様は野原師に代えて松永久次郎師(後の司教)を指導司祭に任命された。長くローマで勉強し、ローマで司祭に叙階されたばかりの松水師にとって、これは意外なことだったにちがいない。いつか師がこのことを回想されてお話しになったことを私は山口大司教様と松水師への深い感謝の念とともに忘れることができない。任命を受けて松水師はご自分の気持ちを率直に述べられたらしい。その時、司教様は「あなたは私がこんなに大切に思っていることをそのように思うのか」とおっしゃり、師はその言葉にいたく心を打たれたとのことであった。
    野原師は、奥浦修道院で行われた黙想会を最後に勉強のためローマに旅立たれた。黙想会の話がでたのでこの頃の黙想会の様子を少し書きたい。統合して、黙想が義務づけられたが、当時黙想会は各修道院持ち回りだった。細々と肩を寄せ合って暮らしている狭い家に、一度にたくさんの人がやって来るのでその準備は大度だった。布団、鍋釜、茶碗、皿、料理の仕出しなど、まるで結婚式のような騒動だった。でもみんな初めて他の修道院に寝泊まりし、初めて修道者の身分の者だけで講話を聴き、祈り、時には悩みなども言い合って楽しい交わりの時であった。自分の修道院から一歩も出たことのない者も多かったので、初めての楽しい小旅行でもあった。黙想会を通じて互いを確認し合い、一つの修道家族としての絆を深めていった。
    この頃、教会も大きく変わろうとしていた。ピオ十二世の後、教皇の座に者かれたヨハネ二十三世は第ニバチカン公会議を開き、聞かれた教会を目指した。多くの回勅、教令が出され、1964(昭和39)年、ミサが対面、日本語になった。イ|参道生活も個性が重んじられ、自己の責任が問われるようになった。松永師はいち早くこれらの動きをとらえ、これをもとに指導にあたられた。「教会憲章」、「修道生活の刷新適応に関する教令」が講話や修練院のテキストに用いられた。また、こうした動きを踏まえた会憲、慣例書の草案も練られた。少しずつ修道会としての形を整え始めた聖婢姉妹会にとって、養成は差し迫った問題だった。 1965(昭和40)年、松水師は大浦の本部に当てられた建物に隣接して志願院を建設し、「サンタマリアの家」と名付けた。それぞれの支部で養成されていた学生志願者たちが皆ここで養成を受けることになった。この志願者たちのお世話係に、水の浦修道院の赤窄イソが任命された。転任など思いもよらない時代、受諾は至難だった。考えあぐねた末、「お受けできません」と返事をポストに投入した。しかし、その後すぐに、これはふさわしくない行動だったと反省し、慌てて郵便局に出かけ、投函したばかりの手紙を返却してもらった。司祭の呼び掛けに抗することのできない素朴な従順がほほえましい。ここには多い時には50~60名もの志願者たちが居住し、朝、電車の停留所に向かって大浦の坂を駆け下る姿は壮観だった。
7 実質的統合への歩み
    支部が先で、本部が後という異例の成り立ちのため、本部を構成する、会長、顧問、修練長、本部要員を選び出し本部に召喚するのは容易なことではなかった。松水師に要請されて、木ロマツ、宮地シメ子、岩崎キメが交替でその任に当たったが、支部と掛け待ちで双方を行き来した。しかし、このような困難な状況の中で、支部へ通達を出し、院長を集めて院長会を開くなど、一つの修道会として会員をまとめること、目指すものを伝えるための努力が払われた。本部の建設、会計の一本化は、まず着手しなければならない課題だった。 1967(昭和42)年から岩崎キメが会長となり、修道会、教会の全国的な研修会や会合に積極的に参加し、外部から司祭やシスターを招くなど、新しい息吹を吹き入れた。聖ヨゼフ布教修道女会、援助マリア会に修練を委託したりもした。聖婢姉妹会という修道会が長崎にあるらしいと、すこしずつ存在が知られるようになったが、会員たちはまだ聖婢姉妹会会員であることが他人事のようで、なにかしら面映ゆく感じていた。
    1968(昭和43)年、山口大司教様が引退なさり、里脇司教様が着座された。里脇大司教様は、先にも述べたように、聖婢姉妹会統合の調査に当たって下さった方であったから、この後特別のご配慮をいただくことになる。1970(昭和45)年頃から若手の会員が集められて、年に何回か明日の聖婢姉妹会のあり方を語り合った。この集まりで、「おたより」の発行を決議し、1971(昭和46)年7月に第1号を発行した。発行所は福江修道院、月刊で、互いの情報交換が目的であったが、松永師、会長の寄稿もあって修道生活を考えるよすがともなった。また、支部修道院を掲載し、毎月1か所ずつ支部を紹介した。また、この頃、里脇大司教様の提案もあって、修道服着用の賛否をめぐる論議が盛んになり、「おたより」の紙面もこのことで賑わった。
8 辻町に待望の本部完成
    こうした中、本部建設の準備も進み、たくさんの方々のご厚意をいただいて、十字修道院の隣接地を取得し、1970(昭和45)年2月着工、1971(昭和46)年8月、竣工した。会計が一本化していない中での本部建設は大変な苦労であった。当時出された通達の文面に、建設費の拠出依頼のための支部への気遣いが読み取れる。会員は一致協力し、生活費をきりつめて建設費を本部へ納入した。苦労を分かち、同じ目的のために析って、やっとひとつの修道家族であることが不自然なことでなくなった。会員は協力の力に驚き、素直に喜び合った。今では狭苦しく見える建物が何と大きく立派に見えたことだろう。本部はこうして大浦から辻町へ移転した。学生志願院も本部の三階に移り、大浦の「サンタマリアの家」を修練院に転用することになった。期間、人員ともに不規則だった修練もやっと一年間になりメンバーの入れ替わりなしに、カリキュラムに沿った修練ができるようになった。初めは会員の間に強い抵抗があった転任も、この頃には当然のこととして受け入れられるようになっていった。
    1973(昭和48)年1月、初めて会憲に沿った選挙総会が開かれ、谷中フジノが会長に選出された。谷中フジノは所属していた鯛の浦修道院から本部に移り常住した。新しい本部でやっと組織が整い始めたが、資料、文書、書類など、未整理のままであったし、会憲、慣例書の見直しも迫られていた。また、会員の霊的生活、霊性を深めることにも力を注がねばならなかった。
    1974(昭和49)年、教会が定める聖年を祝うため、長崎教区で聖地巡礼が計画され、会長と会員もこれに加わり、時のバウロ六世教皇様から祝福を受けた。あのキリシタンの乙女たちが共同体を作り始めたころ、この日のことを誰が予想できたであろうか。先輩たちの熱いパーパ様への思い、ローマと聖地へのあこがれが100年を経て実現したのだった。
9 お告げのマリア修道会へ
    里脇大司教様もまた、ローマ教皇庁認可の正式修道会への準備を進めて下さっていた。 1975(昭和50)年1月2日、法的設立の認可をローマに申請して下さり、3月17日教皇使節より設立認可書が届けられた。3月25日、会の名称を「お告げのマリア修道会」と改め、正式修道会として発足、本部では、里脇大司教様をお迎えして記念式典が行われた。 10月19日には一斉に修道服を着用し、それぞれの小教区で親族を招いて着衣を祝った。会員の服装は、明治から大正にかけては木綿の着物に三幅前かけ、昭和になって、据の長い黒衣を着用したこともあったが、おおむね一般の人と変わらなかった。聖婢姉妹会に統合してからは、白いブラウスに黒のスーツ、それに黒ひもで胸につるした十字架が正式の服装とされていた。修道服着用については大半が不賛成で、公会議後は多くの修道会が修道服を脱ぎ始めていたこともあって、時代に逆行するようにも思えたが、あえて着用に踏み切った。これは修道者の身分を自覚し、証しするために正解だった。また、これまで、あねさん、おばさん、○○さんなどと呼び合っていたものをシスターと呼ぶよう統一した。
新しい会憲づくりには里脇大司教様自ら取り組んで下さり、新しい教会に相応しく、福音に照らした、深く、幅のある会憲となった。会計が一本化され、支部収入を本部に納入し、支部は共住費で生活するようになった。
    1978(昭和53)年、松水師が司教に叙階されたため、中島政利師を聖務司祭にいただくことになった。また、1980(昭和55)年には、里脇大司教様が枢機卿になられた。 多くの方々の指導をいただきながら、会員の霊的な而も少しずつ成長したが、これに大きく貢献したのは「折りの家」である。本部が完成してからは、持ち回りの黙想会がなくなって、本部で一括して黙想が行なわれるようになったものの、大部屋に所狭しと寝泊まりしながらだったので、沈黙のうちに折るという本来の黙想の形にはほど遠かった。「折りの家」をもつことは会員の霊性の向上に不可欠だった。 1980(昭和55)年佐世保に「折りの家」が完成し、8日間、個室で体と心を休めて神と語らう日々は、会員を折りの深みに誘い、霊性を深めていった。 1977(昭和52)年初期修練が2年間に、終生誓願修練が1年間になり、奉献生活はさらに深められていった。
    こうして修道生活が充実していく中、事業の而でも変化があった。日本のGNP国民生産高は世界のトップレベルになり、高齢化、少子化か進んだ。こうした社会の勤きに洽って、新たに老人ホームが事業に加わり、幼稚園、保育園、養護施設の子供に対する教育も高度化した。孤児たちを病気から守るために生まれた診療所も病院に昇格して地域にしっかり根を下ろした。
 10 本部、小江原へ新築移転
   
谷中フジノが二期、会長を務めた後、1985(昭和60)年中村鈴代が会長に選出された。 1972(昭和47)年にできた辻町の本部は、会員の増加、修道生活の多様化などで、すでに手狭になっていた。増改築を試みたが、1983(昭和58)年の長崎水害後の開発の基準が厳しくなり、新しく土地を求めなければならなくなった。 1986(昭和61)年、開発中の小江原ニュータウンの一角に土地を求めることができ、新しい本部修道院の設計が始まった。 1989(平成元)年10月、本部建築に先立って同じ団地内に診療所、聖マリアクリニックが開設され、住民の診療と本部移転に向かっての先駆けの役を果たした。
   1990(平成2)年、里脇枢機卿様が教区長を引退なさり、島本要司教様が着座された。 1992(平成4)年10月7日、小江原に本部落成、島本大司教様により、80余名の神父様の列席をいただいて献堂式が行われた。中島師が聖務司祭を引退なさり、山内清海師を修道会付き司祭にお迎えした。本部は大浦から辻町、辻町から小江原へと二度目の移転をし、辻町の旧本部は「浦上サンタマリアの家」として学生志願者が使用することになった。また、その一部を内部改造し、1992(平成4)年修練院が大浦から移転した。
11 物の豊かさと心の豊かさ
    荒廃の浦上の地にお告げのマリア会の種が蒔かれて122年、1996(平成8)年4月1日現在、会員408名、初期修練者12名、志願者70名の修道会に成長した。支部修道院も増えて40となった。長崎教区外からの会員の派遣の要請を受けて、このうち3支部は教区外である。事業は社会のニーズに応えながら大きくなり、養護施設3、幼稚園2、保育園37、老人ホーム4、デイサービスセンター3、病院1、診療所1を数え、さらに老人ホーム1を建設の予定である。 教区本部、カトリックセンター、神学院での奉仕、教会賄い、カテキスタなど教区との関わりは創立当初と同じく続いている。 
    本部をはじめ、各修道院の建物も立派になった。会の機構、機能もどうにか整った。霊的にも、8日間の黙想、姉妹研修会、教区が主催する神学講座、聖書講座への参加、人間関係セッション、1ヵ月の霊操など、祈り、学ぶ機会が準備されている。創立の頃には想像もできなかった豊かさである。しかし今、豊かさとはうらはらに、生きる価値と目的が混沌とし、愛を求めているのに本当の愛が分からなくなって苦しんでいる貧しい時代でもある。こうした時代の流れに対応して、どう生きれば良いのか、先輩たちの生き方をどう継承していくか問い直さなければならない。
    お告げのマリア会の発端は、司祭の呼び掛けに神様の声を聞くことから始まった。小教区、教区への奉仕は会憲にうたわれている通り、会の大きな目的である。小教区と一丸となって苦楽を共にした先輩たちのたくましさ、司祭への無条件の従順を、姿、形が変わっても、教会奉仕の場で大切にしていきたい。カテキスタ、教会賄いなどの陰からの司祭への奉仕を充実させること、さらにどうしたらもっとよい奉仕ができるのか積極的に検討しなければならないと思う。
    社会福祉の充実、福祉事業は私たちがやらなくても誰かがやる時代になっている。こうした中で私たちが力を注がねばならないのは心の豊かさのために働くことではなかろうか。生きる事の意味(Quality of Life)、命の尊厳が大きな関心事になっている。子供もお年寄りも死を前にした病人も、皆一つの人格として大切にされるように、そして、永遠の命への希望が持てるように、奉仕の場と心を広げていかなければならない。少子化、高齢化への具体的な対応も大きな課題である。 
    修道生活に意味を見いだす若い人が減りつつある。神の現存の実感、神への畏敬、それに根ざした正しい価値観が若い人の中に育つように折り、会員の霊的な喜びがこの人達に伝わるように自分の霊性を深める努力が必要である。
12 すべては神の業
    赤貧の言葉をもってしても言い表すことのできない貧しさ、なぜそれほどまでにと理解に苦しむ無条件の従順、世間の人と変わらない生活をしながら大切にした貞潔、先輩たちは極限の条件の中で、価値あるものを失うことなく日々を過ごしてきた。その根源にあったのは命をかけて守り抜いた信仰であり、それに根ざした愛の教えへの忠実だった。先輩たちは信仰によって、最も大切なことを見通した。だから、「助けを必要としている人を黙って見過ごすことができなかった」のであり、貧しい共同体に身を置くことをいとわなかったのである。寄る辺のない孤児と生活を共にする、死んで当然とされている間引きの子供を背負ってもらい乳をして回る、文字を読みも書きもできないのにこのような子供のために戸籍の登録に行く。やっと手に入れた米は子供に与え、自分たちはツノ虫のついた三年かんころに冷や水をかけてすする。睡魔と戦うために大声で祈り、音頭をとり、冗談を言い合いながら機を織る、月明りを頼りに畑をうつ。煮干し製造の魚をとるため海の男たちと競って櫓を漕ぐ、お歯黒に丸まげのいでたちで一人行商に出る。かたや食べるに事欠く生活の中から学費を捻出して医者や保母を養成する。先輩たちは、生きるため奉仕するために、ありとあらゆることをした。そして、「助ける、助けられる」という関係を越えて、助けを必要としている人々とすべてを共有したのである。この理論や理屈や納得を越えた奉仕の姿、必要としている人々、事柄に向かって自然に体が動いていく先輩たちの生きかたが、お告げのマリア会にはいつも変わることなく脈打っていなければならない。共にいて、同じレベルで、人々と心の最も深みにある痛み、苦しみ、喜びを共有することが会員が目指す本当の喜びでなければならない。
    神はいつも共にいて下さり、必要な時に、必要な人、必要な物を下さった。パリミッション会の神父様方は優れた霊性と知識、それにご自分の財産すべてを惜し気もなく差し出して下さった。歴代の教区長様方、特に山口大司教様、里脇枢機卿様の物心両面のご配慮は言い尽くせない。野原師、松永司教様、中島政利師は時にかなって最も必要な指導をくださった。今また、島本大司教様のもと、山内清海師のご指導をいただいている。会員たちも一人一人が与えられた役目を果たしてきた。関わってきたすべての人が神様の計画の中に消えて、お告げのマリア会が今ここにある。多くの人を通して行われる神の業、それは人の思いをはるかに越えることをお告げのマリア会の歴史に見るのである。
                      (礎 ISHIZUE お告げのマリア修道会史 1997年 pp17-23)
お告げのマリア修道会
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