12 すべては神の業
赤貧の言葉をもってしても言い表すことのできない貧しさ、なぜそれほどまでにと理解に苦しむ無条件の従順、世間の人と変わらない生活をしながら大切にした貞潔、先輩たちは極限の条件の中で、価値あるものを失うことなく日々を過ごしてきた。その根源にあったのは命をかけて守り抜いた信仰であり、それに根ざした愛の教えへの忠実だった。先輩たちは信仰によって、最も大切なことを見通した。だから、「助けを必要としている人を黙って見過ごすことができなかった」のであり、貧しい共同体に身を置くことをいとわなかったのである。寄る辺のない孤児と生活を共にする、死んで当然とされている間引きの子供を背負ってもらい乳をして回る、文字を読みも書きもできないのにこのような子供のために戸籍の登録に行く。やっと手に入れた米は子供に与え、自分たちはツノ虫のついた三年かんころに冷や水をかけてすする。睡魔と戦うために大声で祈り、音頭をとり、冗談を言い合いながら機を織る、月明りを頼りに畑をうつ。煮干し製造の魚をとるため海の男たちと競って櫓を漕ぐ、お歯黒に丸まげのいでたちで一人行商に出る。かたや食べるに事欠く生活の中から学費を捻出して医者や保母を養成する。先輩たちは、生きるため奉仕するために、ありとあらゆることをした。そして、「助ける、助けられる」という関係を越えて、助けを必要としている人々とすべてを共有したのである。この理論や理屈や納得を越えた奉仕の姿、必要としている人々、事柄に向かって自然に体が動いていく先輩たちの生きかたが、お告げのマリア会にはいつも変わることなく脈打っていなければならない。共にいて、同じレベルで、人々と心の最も深みにある痛み、苦しみ、喜びを共有することが会員が目指す本当の喜びでなければならない。
神はいつも共にいて下さり、必要な時に、必要な人、必要な物を下さった。パリミッション会の神父様方は優れた霊性と知識、それにご自分の財産すべてを惜し気もなく差し出して下さった。歴代の教区長様方、特に山口大司教様、里脇枢機卿様の物心両面のご配慮は言い尽くせない。野原師、松永司教様、中島政利師は時にかなって最も必要な指導をくださった。今また、島本大司教様のもと、山内清海師のご指導をいただいている。会員たちも一人一人が与えられた役目を果たしてきた。関わってきたすべての人が神様の計画の中に消えて、お告げのマリア会が今ここにある。多くの人を通して行われる神の業、それは人の思いをはるかに越えることをお告げのマリア会の歴史に見るのである。
(礎 ISHIZUE お告げのマリア修道会史 1997年 pp17-23)